2020
09.09

差別は一方通行では起こらない。「人を差別しないことを心がけてきた」と語る障害者の言葉の重み

Physical Challenger

脳性麻痺(アテトーシス型=アテトーゼ型とも) 加賀山隆 氏

生まれつきの脳性麻痺。でも自分で運転する車で横浜から広島まで旅行に行っちゃうバイタリティ

今回は、弊社CEO増本が硬直した筋肉の動きを良くする手術のために入院した南多摩整形外科病院で知り合った加賀山隆さんをご自宅のある横浜市にお尋ねしました。

生まれつきの脳性麻痺による運動障害がありながら、旅好きでご自分のクルマで広島やら函館まで旅行するというバイタリティに感銘を受けて以来のお付き合いです。

非常に穏やかで明るい印象の加賀山さん。発声に障害をお持ちで、ゆっくりであればお話はできるのですが、気を遣っていただき、事前の質問に丁寧にWordで回答をお持ちいただきました。今回は、そのテキストをなるべくそのまま掲載しつつ、加賀山さんの人となりをご紹介します。

  • ご自身の生い立ちや、障害を持たれた経緯などについてお聞かせください

(以下、加賀山さんによるテキスト。一部加筆修正しています)

「昭和40(1965)年5月横浜市に生まれました。障碍名はアテトーシス型脳性麻痺と呼ばれるものです。東京オリンピックが終わった次の年で、高度成長期の時代でした。

私は病院で生まれたのでは無く、家でお産婆さんに取り上げられ、仮死状態で生まれたらしいです。また脱腸だったらしくその手術もしました。脳性麻痺の原因ははっきりしていません。

私の障害者手帳が発行されたのは昭和43年のことで私が3歳の時でした。

この時代の医療や福祉は今ほど進んではいなく、頭蓋骨に穴を開ける脳の手術は出来ない時代でした。私が生まれた頃、祖父が脳出血で倒れましたが、手術が出来ず約1週間後に亡くなったと聞いています。

また重度と言われる障害児はこの時代、勉強どころか学校にも行けず、家の中や施設の中での生活がほとんどだったそうです。

私は幼少期、神奈川県立ゆうかり園という施設(現・神奈川県立三ツ境養護学校)に毎日のようにリハビリテーションに通っていました。そのおかげでなんとか歩行が出来るようになりました。

保育園や幼稚園では、障害者を受け入れたことが無いという事で断られ、なかなか難しかった中、近所の方々のサポートや幼稚園の特別な配慮で入園できたそうです。

昭和46(1971)年にやっと養護学校の整備計画と義務化が決定され、これまで障害のある子供は就学猶予・免除扱いとされてきましたが、これで障害児の全員就学体制が整えられました。

昭和47(1972)年〜上野動物園でパンダが公開された年〜、私は小学校に入学しましたが、小学校も中学校も、学区内の普通学校に通いました。小学校では、100人中肢体不自由児は私だけ。中学校では多いときで300人中3人程度、と、受け入れ方など当時の先生方は大変だったと思います。

昭和56(1981)年〜スペースシャトルが初めて打ち上げられた年〜、市立の養護学校(現・特別支援学校)高等部に入学しました。私の場合、就職活動は養護学校の方が普通校よりも有利だと中学校の担任に言われてこの学校を選び入学しました。

それまで重度と言われる障害者の人とは全く交流がなく、最初はどう付き合っていったらいいのかが分かりませんでした。健常者と障害者もお互いに交流がないと同じ事を思うのではないかと思いました。

偶然この年は、国際障害者年でもありました。テーマは「完全参加と平等」。この頃からノーマライゼーションの理念が普及してきたと思います。

養護学校での3年は私自身普通校では経験が出来ないこと(生徒会長など)を沢山経験させていただきました。

昭和59(1984)年〜新紙幣が発行された年〜、就職が決まらず小田急相模原にある神奈川障害者職業訓練校(現・神奈川障害者職業能力開発校)へ入学。ここは全国の障害のある方々が職業訓練に来ていて、寮生活の人と通学の人がいて、私は公共交通機関で通っていました。原則1年間の訓練期間ですが、私は就職が決まらず2年通いました。

私達の訓練内容は、体力を付けるため外での農作業がほとんどでした。出来たばかりの科でしたので最初は土地の開拓から行いました。その場所は昔建物があってそのまま埋め立てたらしく、コンクリート片が多数ありそれをスコップなどですくい上げ一輪車で捨て場まで運ぶという作業をしていました。捨て場にはコンクリートの山が出来、野菜の栽培のしかたや校内の木の剪定などを学び、畑ではいろいろな季節の野菜を栽培しました。今となっては良い思い出です。そこで出会った友人とは今でも旅行や飲みに行く仲です」

「自分で運転して行ったところは、北は山形県と秋田県の県境にある鳥海山の鉾立展望台、南は四国を一周しました。公共交通機関では、沖縄県以外は周りました」

・・・すごいですね。

「訓練校を卒業しても就職が決まらず、就職が有利になるよう私は自動車学校へ通いました。訓練校にも自動車教習コースはありましたが、それはかなり肢体が動かせる人向けのもので、私のケースでは指導員の人から難しいと言われて諦め、一般の教習所を探しました。当時障害者が乗れるオートマチックの教習車がある学校は2校だけで、私が通ったのは横浜駅からバスで5分ほどの場所、教習車は日産グロリアという車でとても大きく感じました。学校にはほとんど毎日通い、仮免許のコースは桜木町近辺という交通量が多い場所で教習し、約3ヶ月で普通免許を取りました」

筆者は加賀山さんの四つ年上で、同じ横浜出身ですので、グロリアを使っている横浜駅から5分の自動車教習所がどこか大体わかります。筆者自身は溝ノ口にある同じ教習所の分校で免許を取りました。ま、どうでもいいことですが。

「それからすぐに中古車を購入し、少しして養護学校の同級生の親からお誘いの電話があり、今でもボランティアでお世話になっている障害者地域作業所に行くことになりました。そこでは、職員さんのお手伝い、広報誌作りなどいろいろ行いました」

「平成3(1991)年〜都庁舎が新宿副都心へ移転した年〜に、作業所の友人の姉に「外資系保険会社の人事部に知り合いがいるから」と紹介され、ようやく就職が決まりました。ちょうどその頃パソコンを購入していて、家でも出来る仕事をと、最初の頃はテープ起こしをやりました。聞き慣れないビジネス用語などが多く勉強になりました。しばらくすると担当部署が丸の内から早稲田に移転することになり、週1回早稲田に行くことになりました。テープ起こしは無くなり、部署内での書類整理が主な仕事になり、空いた日は作業所のボランティア活動と言う日課になりました」

同じ世代だからわかりますが、1991年にパソコンを購入している、というのは驚くほど早いです。この時代は筆者がいた出版社でも、編集部に1台くらいしかまだパソコンなんてなかったです。ただし、筆者はアニメーション専門の雑誌におり、読者はすでにパソコン通信(今でいうSNS的なもの)でやりとりできる人も多くいました。

加賀山さんは自ら「鉄オタ」と称するくらい、少しオタク気質でテクノロジーに敏感だったようです。

東日本大震災の年、46歳で頸椎症を発症

「自社ビルが錦糸町に完成と同時に部署も移転し、早稲田に通っていた頃と同じように仕事を行っていました。

40歳を過ぎた頃から(けい)椎症(ついしょう)と言われ整形外科に通うようになり、痛みがひどいときは痛み止めの注射を首に打つようになってきました。

平成21(2009)年〜裁判員制度がスタートした年〜、母が亡くなり、父と2人暮らしになると私の仕事に家事もプラスされました。体には負担がかかっていたのでしょう。

そして平成23(2011)年、東日本大震災と福島原発事故が起こりました。その頃から頸椎症は悪化し、5月には杖を使わないと歩けなくなり、それから1か月で寝たきりに近い状態になってしまいました。ボランティア活動や会社には通えなくなり、その間作業所の職員さん達に色々と助けて貰い、障害等級の変更手続や電動車イスの申請手続、家のヘルパーの手配のことも行っていただきました。そして町田市の南多摩整形外科病院に行き頸椎の手術を受けることになりました。説明では手術まで半年かかると言われていましたが、急遽手術のキャンセルが入り2ヶ月で受けられることになりました。その間体は日に日に手足のしびれがひどくなり、脚の感覚があまりなくなり伝え歩きもままならずよく転んでいました。あと半年この状態でいたらと思うと、今とは全く違う体になっていたと思います。

手術が終了し目を覚ますと、体が固定されていて全く動かせない状態でしたが、脚の感覚は戻っていて脚のしびれも無くなっていました。手のしびれも少しはあるもののだいぶなくなっていました。この体の固定は約1週間続き、全身が動かせない状態は私にとって苦痛でした。

頸椎の手術を皮切りに私の体の改造が始まりました。内容は体内にある異常な筋肉の緊張を取って楽にするというもの。私は頸椎のみの手術であれば1~2ヶ月で退院できましたが、脚やお腹もこれを機にやった方がいいと言われ、手術を入院10ヶ月の間で5回行いました。」

まったく同じではないですが、この筋肉の緊張を取る手術を増本も行い、同じ病院で加賀山さんに出会ったのです。

「退院してからすぐに住宅改修をして、私に合った住環境にしました。

体は、2次障害のため、昔のようには歩けなくなり、歩行器や電動車イス等のお世話になるようになりました。ボランティア活動や会社等も電動車イスで行くようになりました。歩いて通っていたときとは全く違う世界、例えば電車に乗るときは、スロープ板を使うため、駅の係員にお願いをします。そして、降車駅に連絡を入れて大丈夫ならば電車に乗ることが出来ます。会社によってですがこれだけでだいたい最低10分ぐらい時間がかかります。今まで経験が無かった私には不便なことばかりでした。

町田の整形外科病院の主治医になるべく早い時期に頸椎の固定手術を強く勧められ、ここでは手術は出来ないので、と紹介状を書いて貰い、横浜南共済病院の整形外科へ行き、平成26(2014)年〜消費税が5%から8%に増税になった年〜の夏、首に器具を入れて骨と骨を固定する手術をしました。この手術ではお尻の骨を使うらしいのですが、その傷口が首の痛さよりお尻の傷口の方が痛かったことを覚えています。

担当医の三原先生は病院の整形外科部長で、本も出版・脳性麻痺の方々の手術論文を書いています。各地方から脳性麻痺者が手術に来ています。私が入院中の時は大阪からの患者さんともう1人患者さんがいました。今でも私が外来で行くと脳性麻痺の方をよく見かけます。

会社が他の会社と合併する約半年前、平成28(2016)年〜相模原障害者施設殺傷事件が発生した年〜、私は部長室に呼ばれ、やってもらう仕事がないと言われ雇用を打ち切られました。時代の流れでしかたがありませんが、私が行っていた仕事はほとんど外部の会社に委託されていました。就職してちょうど25年でした。

またこの年入院していた父が他界しました。私は両親を亡くしましたが、妹が同居してくれることになりました。私も出来ることは協力をしていますが、出来ないことなどはやってくれますので助かっています。

平成30(2018)年〜豊洲市場が開場した年〜、三原医師と相談してボトックス注射を首の緊張している場所に4ヶ月に1度の頻度で打ち始めました。手術で固定された筋肉の動きを止めた為に痛むという事で他には全く異常が無いらしい。ボトックス注射の効果が無くなってくる3ヶ月ぐらいになってくると痛みが出てきます。頻繁に打っていると副作用が出るという事です」

ちなみに増本も27回この注射を打っていますが、副作用は出ていないそうです。

「自家用車は収入が減ったことで仕方なく甥に譲って今は運転をしていませんが、機会があればまた運転をしたいと思っています。今度は自動運転の車が欲しいと思っています。

現在私はボランティア活動を変わらず行っていますが、今後の医療のために色々と試して役立てて行き、色々な事を挑戦して行きたいと思います。4月からは新型コロナウィルスの影響で自粛中です」

誰にでも同じように接し、人を差別しないことが大事だと思います

増本が用意していただいた資料を読みながら、スタッフが一様に「すごいバイタリティですね」などと話すと「たいしたことないですよ」とにこやかに笑いながら受け答えする加賀山さん。他のインタビューでも一通り皆さんにお渡ししているアンケートにも、テキストの答えを用意していただきました。以下、一部抜粋します。

2. リハビリを楽しくやるために工夫していることはありますか?

「毎日やる、だけど無理せずにやる、ってことでしょうか」

3. これは諦めた、ということがありますか?

「車椅子が入れない飲食店、病院とかでしょうか」

車椅子で入れない病院、ってまだあるんですねえ。都会では致し方ない部分もあるのでしょうが・・・。

「それと、特急の停車駅ですが段差があってエレベーターがない駅」

これは、利便性もありますが、部分的に鉄オタ発言かもしれません(笑)。エレベーターがない駅でも駅員がサポートはしてくれるのでしょうが、日本人特有の遠慮の感情もありますので、やがては日本中からなくなるといいですね。

4. ご自身ならではの生きるコツ

「誰にでも同じように接し、人を差別しないこと」

さりげなく書かれていますが、「差別」の本質を突いた深い言葉です。なぜなら、差別は一方通行では起きないからです。もちろん、どちらが先に差別を始めたか、というのがはっきりしているケースはあるでしょう。しかし、一度生じた差別を無くそうと思うのなら、どちらに属する人も差別感情を捨てる、ということ以外に解決の方法はありません。あえては書きませんが、昨今おきている様々な(健常者・障害者以外の)差別問題に共通する解決の道だとお話を聞いていて感じました。

5. 障害者全般におっしゃりたいことはありますか?

「できないと思うことでも一度は挑戦してみること。自分で描いた夢は諦めないこと、です」

これからも加賀山さんのアグレッシブな人生へのアプローチを我々も応援していきたいと思います。


加賀山隆 (かがやま・たかし)

詳しいプロフィールは1番のアンケートへのご回答にある通り。現在も横浜市内の相鉄線沿線にお住まいです。

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