2020
08.26

母の願いを叶えたいという思いから目指した、歌手。目標である紅白歌合戦のステージを夢見て

Physical Challenger

歌手  濱田 朝美 氏

今回は脳性腫による手足の不自由、言語障害を抱えながらも、歌手として活躍されている濱田朝美さんにお話をお伺いしました。“日本一ヘタな歌手”として、「ザ!世界仰天ニュース」(日本テレビ系)などのメディアでも取り上げられた濱田さん。「NHK紅白歌合戦を目の前で見てみたい」と言った母の願いを叶えたいという思いから、歌手を目指したそうです。夢を諦めず、どんな形でもいいからあのステージに立ちたい!という思いから、現在も「17 Live(いちななライブ)」などを通して歌手活動を行っています。

宮崎県に生まれ、23歳で上京するまで、地元で過ごしていたという濱田さん。自身の自慢として「悲しいことも思い出に変えられる」という回答をしてくれました。「どんなに悲しいことがあっても、時間が経てば思い出に変えて浄化されてしまうんです。壊れた時には笑うしかなくなって」と、背景には地元で受けてきた、さまざまな差別があったようです。

「私自身、幼いころは普通に歩いていた記憶があるんです。生まれた時に頭に水が溜まっていた影響で、成長は遅いかもしれないと診断を受けていました。医師からは問題はないと言われていたんですが、4歳になった頃から転倒したりすることが増えてきたんです。その頃からすごいスピードで障害が進行してしまい、5歳半の時には車椅子に。脳水腫による上肢下肢機能障害という病名でしたね」

濱田さんは知能には障がいがないため、車椅子生活にもめげずに私立の小学校を受験します。見事に合格するのですが、教育委員会からの一言で養護学校への入学を余儀なくされてしまったと言います。

「両親が離婚したため、母が私を女手一つで育ててくれました。母親の英才教育のもと、小学校受験をして合格。でも、入学式の1週間前に教育委員会から電話が来て、入学は許可できませんって言われたんです。学校側は許可してくれたのにも関わらず。で、仕方なく養護学校へ通うことにしたんです。でも、養護学校へ行ったら勉強の時間なんてない。何のために頑張ってきたんだろう……って、母親と一緒にすごくがっかりしたのを覚えています。高校に入ってからも私ほど重度な子がいなかったので、入学式当日からいじめにあいましたね」

「怒りが湧いてきた」上京を決意した親族同士の言い争い

しかし、努力が認められて大学推薦をもらったという濱田さん。ですが、母親がガンに侵されてしまい大学入学を断念します。

「母がガンになってしまったので、私の送り迎えや付き添いが無理になってしまったので進学は諦めました。高校卒業後は家にいて、母が仕事の時は週3くらいでデイサービスへ行って、他の日は一人で留守番。しかし、私が21歳の時に母のガンが再発してしまい、見つかったときは余命1か月でした。母が死にそうな状況にも関わらず役所が動いてくれなかったため、私を預かってくれる施設が見つからなかった。そのため、母は亡くなる10日くらい前まで私を介護してくれていましたね。やっとショートステイという形で私を預かってくれるところが見つかり、同時に母は検査という形で入院。しかし心が落ち着いたのか、母は入院してすぐに亡くなってしまいました」

そんななか、唯一の肉親である母親を失ってしまった彼女に「東京へ行こう」と思うきっかけを与える、とある悲しい出来事が起こります。

「母親の遺体の前で『こんな子を残して死ぬな。この子も連れて行けばいいのに』って、親族が言い争いを始めたんです。悲しさより怒りが湧いてきましたね。どうして死んでまで、私のためにそんなことを言われないといけないのかって。そして、お葬式の日に、私は山の上にある施設へ入れられました。死ぬまで出てくるなって感じで。私は悔しかったので市役所に抗議をし続けて、半年ほどしたら役所が動いてくれたんです」

東京で受けた衝撃。障がい者が自由過ぎる!

願いが届き、母が生前に入れてくれた県の中心部にあった施設に戻れた濱田さん。そして、彼女はニヤリと笑いながら「ここから、私の企みが始まったんですよ」と上京物語を語ってくれました。

「名古屋に住んでいた唯一の理解者であった従姉が、『こっちのグループホームに来ない?』って言ってくれたんです。これはチャンスだと思いましたね(笑)。そのついでに東京の友人のところへも遊びに行くことにしたんです。1週間の外出届を出して、カバン一つで飛び出しちゃいました!」

「東京に来たとき、障害者の自由さに惹かれちゃったんです。そして、友だちに現参議院議員の木村英子さんが設立した自立ステーションに連れて行かれたときに圧倒されたんです。木村さんとお話しする機会があったので『歌手になりたい』と伝えると、木村さんが『自立とか考えているの?』って聞いてきたんです。私が考えていませんと答えると、すごく怒られましたね。『そんなんだったら叶えるな。東京に来るな!』みたいなことを言われちゃったんです。そうしたら、悔しくなって、夢を叶えてやる。絶対に形にしてやる!って。今では15年間、ここ(東京)に居座ってます」

私の介護者の方は、とても良くしてくれる! でも……

電動車いすでの生活を送る濱田さん。全身性ジストニアのため、日々の生活には介護者の手助けが必要です。しかし、現行の法律では介護者がサポートしきれないケースも多く、濱田さんは、現在の介護システムが変わって欲しいと切に願っています。

「現在の法律だと介護の方は、私の移動とか買い物、トイレ、お風呂、食事とか、私のことしかサポートしちゃいけないんです。私の介護者の方は、とてもやってくれる人なのですが、細かいことを言うと、お客さんにお茶を出すのも業務外になるのでダメ。なので、友だちを呼んでホームパーティーをしたいと思っても、私たちにそれは許されないんですよね。私と同じような車椅子の人が遊びに来たら、介護の方は2人のサポートをしなければいけなくなる。介護者の方の業務外の作業が絶対に発生してしまうので、介護保険の点数の範疇ではダメなんです。そうすると、ヘルパーが2人か3人いないと無理。仮に介護の方が優しさで手伝ってくれたとしても、そのことがばれたら介護者の方たちの立場が逆に悪くなっちゃうです」

「私は自身のアパレルブランドを持っているのですが、ブランドの洋服づくりを介護者の方が手伝うのも業務外。そこは別賃金として別途で私からお支払いできればいいんですけど、それも法律で禁止されているんですよね」

濱田さんの体験からも分かる通り、現在の介護制度には多くの問題が残っています。これからは、障害者の方だけでなく、介護者の方のためにもなる新しい制度を築いていくことが必要だと思います。それには、私たち現場の人間が声を発信していくことが大事なのではないでしょうか。また、濱田さんは、この介護問題の解決作の一つとして、ユニークなアイデアを語ってくれました。

宮崎県に介護ステーションを作りたい!

「私のような一人暮らしの障害者って、介護者不足で困ってるんです。周りからは施設に入れとか言われてしまいますし。で、私は考えたんです。介護者の方に専用の集合住宅を用意すればいいんじゃないかなって。介護者の宿舎と利用者である一人暮らしの障害者の住宅を併設して建てて、すぐに行き来できるようになれればいいなって思うんですよ。ある程度プライベートもお互い楽しみながらも、ボタン一つで来てくれるような感じ。もちろん、その宿舎に住む介護者の方には家賃は発生しません」

介護業界は人手が足りないので、すごく合理的なアイデアですよね。実現されれば、介護者不足と障害者のプライベートという両方の問題が改善される一つのきっかけになるかもしれません。これは、もちろん行政の仕事です。

最後に濱田さんは、自分と自身の母親の夢を語ってくれました。

「あと、私の母の夢なんですけど、実家の土地を丸ごと買い取って介護ステーションを作りたい。宮崎県って、本当にそういった施設が少ないんですよ。親とかが歳を取ったときに行くところがないし、東京と同じように障害者が一人暮らしできる場所がない。こういった施設ができれば、私も宮崎に帰れる。もう一度、宮崎に住みたいですね」


濱田 朝美(はまだ・あさみ)

天羽柚月という名前で歌手として活動中。現在は「17 Live(いちななライブ)」などで配信を行っている。

路上ライブを行う濱田さん。

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